738日目 降る雨を僕は見ていた

 

無変換キーをIMEオフ、変換キーをIMEオンにしてしばらく経つが、相変わらず半角全角キーを使っては誤爆している。

日記を書こう。たまには。その日何があって、何をして夜になったかという、狭義の日記をやろうじゃん。

 

起きたのは昼前だったかな。平和な昼だ。愛と繋がったまま起き上がる感覚。頭の片隅を空っぽにしたままの何らかの欠落とともに、ふかふわに満たされるような、これ以上何も望まないような幸せの感覚。そういうワケの分からない思考のヴェールが剥がれるまでに、二度寝を要する。

ようやく起き上がって飯を食う。カットレタスと、レンチンのパスタ。箱入りのスパゲティに込められているこだわりの風格と、それをわずかたりとも察知できない貧しい舌。だが美味しい。単に空腹だったのかもしれない。

メールを開くと、珍しく書き物のリクエストが届いている。およそ一年振りの。目を通すと、あまりにもはっちゃけた依頼文のなかに、或る特定の友人の調子に乗った顔がありありと思い浮かぶ。さすがに噴き出した。しかし、まだ返事はしていない。簡単じゃない要望だから、一旦検討の時間を置くことにしよう。

溜めに溜めたレポートの期限がそろそろ迫って来たので、参考文献にタダでありつくべく、地域の図書館へ行くと決心する。エアコンを消して、リュックを背負って外に出ると、お盆終わりの静かな夏だった。

ニ十分ほどもひぃふぅと歩いてようやく図書館へ辿り着いたが、そこではパソコンを用いた自習が禁止されていた。今からサウナになった自宅へ戻りたくもない。とりあえず本を借りて、仕方なしにまた外へ出た。普段使うことのない小さな駅のホームで、大学行きの各駅停車を待つ。たった数分の、知らない住宅街の生活にみずみずしく溶け込んでいる時間。

道中でふと思い立って、ちょっと先の駅まで行ってみる。パンツを買った。たちまち踵を返して、今度は逆方向の電車に乗る。

研究室につくと、端の壁に向かって年長のドクターが黙々と作業をしていて、それだけしかない。しずしずと机の隅に陣取って、ノートパソコンを立ち上げ、イヤホンを装着して、借りて来た本を開くと同時に、沈み込むような哀しみと優しさの音楽が耳に届き始める。一体全体、何かを書くときは、静まり返るような鬱に浸っているのが一番だから。……そして2時間弱ほど書き物をした。

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空もすっかり暗くなった頃、隣のキャンパスの別の研究室から、はるばる友人が迎えに来る。そして連れ立って手頃な焼肉屋へと直行した。

どうか、自分の好きな人と――それは親友でも、恋人でも、気のいいアニキでも、お抱えの褐色エルフ耳メイドでもいい――思い立った日に肉を食いに行く、ということを忘れないでほしい。自分の存在が、相手の存在が、いつ当たり前でなくなるか、それを僕たちは知らないから。……それに、もっと切実なこととして、いつまで脂のノった分厚い牛肉を楽しめるか分からないから。

ちなみにそいつは、C言語とRustとTypeScriptがどのように違って、それがどう面白いかという話を嬉々として語った。僕は目と目を合わせて相槌を打ちながら、頭の理解力はとっくに閾値を超えて、どこか遠くの熱帯雨林に降る雨を見ていた。そしてやわらか漬けハラミを味わった。

 

外に出ると、東京の端っこにも大雨がざんざか降っている。しかし、アメダスを見るに、ゲリラ豪雨というやつに違いない。しばらくするとぱったり大人しくなったので、自信を持って道路へ足を踏み出した。すると間もなく土砂降りが帰って来た。なんだかバカにされていると感じた。

駅に着いてからはもう、何のことはない。各停に乗って、最寄りで降りて、しばし歩いて、手を振って別れる。自宅に戻り、サウナと化した部屋が適温に戻るまで、ゴミ出しをしたり、書き残したレポートを末まで埋めたりして。涼しくなってからシャワーを浴びる。それだけ。

 

それだけでいい。それだけでいいんだ。

やるべきことがある。先の予定がある。次に飯に行けるのはいつかと考える。他にも誘いたい友人があちこちにいる。そのためにバイトを増やす。

それ以上に何を望もうか。いや望むものか。とりあえず何か、やわこい概念に抱きしめられるような、そんな時間が長続きさえすれば。あるいは。

 

……そんな妄想のような、取り立てて衝撃も興奮もない、ただの一日を僕が「日記」として書けるということ。できすぎている。あまりにも。

 

ちょっぴり煙くさくなったリュックが、壁際にゆったりと凭れている。