552日目 メンタリティ・フィジカリティ・フェイタリティ

 

 今月に入ってから、どうもメンタリティのチャートの乱高下が極端になってきています。ある瞬間には「アイ・アム・スーパーカワイイ」な浮遊状態に。また、あるときには名状しがたい不安と億劫とに襲われて「フ〇ッキュービッチ」としか言えなくなったり。

 どうしてこうもハイとローとが押し寄せて来るのか。その原因を自問してみますと、まずポジティブな感情を引き起こしている要素としては「卒論を無事に書き上げたこと」が挙げられます。毎晩のようにしたためている駄文が実を結んだのかは知れませんが、一般的な学生に比べると筆が早い方だったらしく、極めて遅いスタートを切った割には見栄えのする研究論文に仕上がりました。おまけに、教授陣からの評判がそこそこ良かったりもしちゃって、私らしくもなく気分上々なのです。

 それではネガティブの方は何なのかというと、要は「タスクの物量攻め」ですね。卒論という特大クラスの壁を乗り越えた今、一見すると重大なタスクは無くなったように思えるかもしれません。しかし、たとえ人生を揺さぶるようなタスクではなくとも、それらが積もりに積もれば大きなキャッシュの山となり、もれなく脳ミソのメモリを圧迫します。書き物の修正、バイト作業の大詰め、それらの合間に降ってくる無数の瑣事……。年度替わりが近づくことも相まって、我が精神は慢性的な焦燥感に駆られ、何でもないようなことすらもしんどく感じるようになっているのでした。

 

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 実は、ネガティブの原因はもうひとつあります。それが何かというと、体調不良です。よりピンポイントに言えば腹痛ですね。

 緊張性からくる不調(病は気からというヤツ)、および食生活の乱れからくる不調の両者が親密な関係を結んだ結果、ここ一週間の私の外出はもれなくサイアクです。体調不良と言ったって毎日二十四時間死んでいるわけではありませんが、起きて動いて電車に乗る日々のサイクルと自分のバイオリズムとが絶望的に噛み合わない。先日の出張などは、余裕を持って一時間半も早く着くスケジュールを組んだのに、もう自分でもよく分からないまま各駅下車を繰り返し、気がつけば時間ギリギリでの到着になっていました。こうなると当然、単なる登下校だって億劫になるし、食事に誘われたときも内心では心配で仕方がない。百害あって一利なし、です。

 食生活を改善するには毎日栄養満点の朝ごはんを作ってくれる異種族メイドさんを雇うのが最良ですが、学生にそんなお金は無いので自分で工夫するしかありません。とりあえず、今日は駅からの帰りにスーパーに寄って、野菜と鍋の元とそれから上等なヤクルトを買ってきました。「ヤクルト程度で元気になるものか」と思われるかもしれませんが、今は藁にも縋る思いなので……。

 

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 ところで、今日から「お嬢さんと嘘と男たちのデス・ロード」を読み始めました。北村紗衣氏による、ジェンダーフェミニズムに関する批評を集めた入門書です。

 全5章あるうちの第1章を読み終えただけなので、まだ書評をする段階にはありません。ですが、読みながらひしひしと感じていることがあります。「この話題、すごく論じにくい」という悩みです。

 論じにくいというのはもちろん、ジェンダーという話題が現在進行形でセンシティブな火薬庫であり、アホアホきりちにっきでは手に余るというのもあります。ですがそれ以上に、ジェンダーについて理解した気になって偉そうに論じるのは憚られるなあ、という感覚があるのです。

 

 

 まずそもそもの前提ですが、人間は「女性か男性か」、あるいは「異性愛者か同性愛者か」というものさしにおいて、完全なる0か100かではありません。大抵の人は完全なる単一の属性ではないグラデーションのどこかに立っていて、10%でも20%でも、自分らしさの中に揺れ動く部分を持っているはずです。

 例として、極めて軽微なものを挙げてみます。「毎日のように女子高生キャラのイラストを漁っているが、ある特定のケモショタだけはシコネタ認定している」というような青年には、わずかながら同性への愛情を感知することができるでしょう。「理想に描く恋人像は紛れもないイケメンの男だけれど、もしも包容力のある女性にプロポーズされたら断らないかもしれない」と思っているお姉さんも、潜在的にはノンヘテロの素質があると言えます。

 さらに寛容なものを見ていきますと、例えば「自意識も恋愛対象も筋金入りのヘテロであるが、それはそれとして同性の知人と親密になったことがある」とか、あるいは逆に「自分はマイノリティだけれど、マジョリティと同じ生き方を選ぶ積極的な未来も大いにあり得る」とか……。このように、だんだんとグラデーションの深みへ拡張していきますと、いずれはフィフティフィフティのどこかに辿り着くということになります。

 このように考えますと、人は誰しも多少なりともノン・マジョリティな一面を持っていたっておかしくないのではありませんか? 私だってそうです。あなただってそうでしょう。無自覚的か、あるいは気づいていて隠そうとしているかに関わらず、そういった側面は等しくあるものです。

 さて、この事実がもたらす帰結はまさしく「多様性」です。すなわち、自分が誰か他人と全く同じ立場からモノを言うということはあり得ない。「理解した気になって偉そうに論じるのは憚られる」と、そう私は思うわけですね。どんな分野だって自由な意見は認められていますが、こと論争になりがちなジェンダーフェミニズムという話題に関しては、なかなか言葉選びを気にしてしまうのです。

 

 まあ、毎日の読者がひとケタしかいない場末の日記で「言葉選び」だなんてアホくさい話ですけどね。ですけども、個人的にはやはり、書評という形で出すからにはなるべく誠実に、誰にとっても愉快な感情を引き起こせるような文章を書きたいという思いがある。

 いずれ数日内に、この本を読み終わる瞬間は必ず訪れます。そのとき、私はどのような感想を展開しているでしょうかね。当たり障りのないことを書いてお茶を濁しているか、あるいは怒りに駆られて壮大なヘイトスピーチをしているか(そんなことは無いと思いますが)。平坦でもなければ急峻でもない、事実と私見とをバランスよく織り交ぜた文章でご紹介できているといいのですが。