555日目 【書評】お嬢さんと嘘と男たちのデス・ロード

 

『お嬢さんと嘘と男たちのデス・ロード』は、古今東西の文学や映像作品を題に取り、ジェンダー規範やフェミニズムの観点から切り込んでいく批評集です。

 この本は読み物として非常に面白く、電車のシートで駅名のアナウンスが全く聞こえなくなるくらい集中して読んでしまいます。しかし、書評という形で真剣に論じよと言われると、これがなかなか難しい。

 斬新で深い考察のあるオタク語りを聞くのは面白いが、あまりに深すぎると「この人に比べりゃ俺なんてペラッペラだな」と躊躇ってしまう。喩えは良くないけれど、そんな感じの心理が働くのです。

 

 

 著者の北村沙衣氏は優れたシェイクスピア論者であり、豊富な批評経験を持つフェミニスト。それと同時に、スターウォーズの世界に育った、人間嫌いの腐女子でもあります。なんだか見慣れた感じがする、いわゆる「有識者オタク」ですね。そんなプロのオタクがメディア作品に投げかける視線は鋭く、きわめて示唆的です。

 例えば『ロミオとジュリエット』でジュリエットがスピード婚を迫る理由について、著者は当時の貞淑で厳格な結婚規範に説明を求めます。曰く、婚前交渉が侮蔑の対象になっていた時代に女性が性欲を満たすには早く結婚するしかなかった、と。そして後ほどロミオの逃避行が始まる際には、逆に結婚を正当化するための事実づくりとしてセックスが行われたと言います。単なる「愛してるからくっつきたいの」ではなく、そこから歴史文化や規範という側面を浮かび上がらせようとするのが著者独自の切れ味ある批評なんですね。

 映画や音楽に描かれたヒロイン像を可視化して監督者の偏ったスタンスを指摘する、なんて節も多数あります。性的対象のモノとして女性を扱っている作品を断罪していく様子は、我々がイメージする「フェミニスト」の像にかなり近い。けれど、決して乱暴な男性嫌悪ではありません。良いところは良い、悪いところは悪いと率直な書き振りで、アナ雪などの有名な作品を取り上げながら論は進みます。

「男性らしさ」についての考察もありました。マンスプレイニング(男性にありがちな、女性に対する高圧的な説明態度)という言葉を発したとき、その言葉の対象ではない気弱で優しい男性たちからも過剰な反応が返ってくるのはなぜか? それは例えば、manに対するwo-man、作家に対する女流-作家のように、女性は接頭辞をつけて「有徴」に扱われるのに慣れているが、男性はデフォルトの「無徴」として育てられてきた。だから男性はman-explainingと「有徴」な性質を指摘されるのに慣れていないのではないか、と著者は考察するのです。

 このような調子で展開されていく本書の批評は、主張ありきの「活動家」ではなく観察に基づく「学者」のスタンスが色濃いため、なかなか好感が持てる書き振りでしたよ。

 

 さあ、ここからです。本書を読んでどう思ったか? を私が書こうとするとき起こること。それは無知ゆえの浅はかな同調と、凄まじいダブルスタンダードです。

 例えば「この映画のヒロインは性的側面ばかりが強調され、都合の良い存在として描かれている」という批判に、私が「そうだそうだ!」と頷いたらどうなるでしょうか。トントンと左肩を叩かれて振り向くと、そこには妄想的少女像の権化たるブルーアーカイブのシロコがいます。\ビャン/ 「ん、先生。私たちのことももっとリアルで自立した女の子として描くべき」

 あるいは、強い意志と賢さを以て男性社会に切り込んでいくヒロインを「現代的で素敵でしょう?」と紹介されたらどうすべきか。…これはあくまで虚構の物語に限った話ですが、私は賢くて気が強くて男主人公に食ってかかるようなタイプのヒロインよりも、都合よく主人公に惚れてくれるタイプの、ほどよくアホで妙にエッチな女の子の方が好みです。ですから、政治的な理性に基づく会話ではフェミニズムに同意できたとしても、趣味嗜好の部分ではフェミニズムに相容れない場面がある。

 重ねますが、無知ゆえの浅はかな同調と、凄まじいダブルスタンダード。これが私のような典型的男オタクが抱えざるを得ない問題です。特に、Twitterではフェミニストとオタクの対立構造が明確化していることもあり、ジェンダーの話題に関しては襟を正して向き合わねば…と思っている人も多いでしょう。しかし、そんな姿勢を普段の自分の行動が邪魔する。性癖が邪魔をする。それに、異性やマイノリティの立場について「そかそか😅」と知ったかぶりするのも良くないし…。とまあこんな感じで、なかなか難しいよね、政治思想に関してモノを言うのは。

 

 しかしながら一方で、私はこうも思ったんです。「真正面から思想のぶつかり合いをするのではなく、作品の中に文化を垣間見るというアプローチをすることで、フェミニズムはずいぶんマイルドに触れられる学問になるのではないか」と。つまり、物語という体はクッション材として働いて、直接的に扱いにくい思想の話をやわらかく伝えてくれるのではないか。だからこの本は私にとって読みやすく、面白かったのではないでしょうか。…あれ、そもそも芸術ってのがそういうもん? こりゃ失礼しました。

 

 そんなわけで、本書は「読むに易く、語るに難しい」なジェンダーフェミニズム批評でした。なかなか良い本でしたよ。

 ぼんやりと「知りたい」とは思うけれど、お固い思想や過激な主張と直面するのは面倒…。そんな人にとって、メディア論的な親しみ深い観点から切り口を提示してくれる一冊です。