825日目 生かすか、殺すか。

 

(ブルーアーカイブ最終章のネタバレを含みます)

 

生かすか、殺すか。そのままに遺すか、糧にして前を向くか。……そんな極限の選択が、古今東西のさまざまなゲームで繰り返し問われている。クライマックスで迫られる重大な判断に、どのように葛藤し、そしてどちらを選ぶのか? そこに、プレイヤーその人の気質が浮かび上がる。

 

大人気スマホゲーム・ブルアカの「最終章」には、こんなシーンがある。

崩壊していく世界を救うべく、並行世界から襲来した異形の存在と戦うプレイヤー。しかし、実はその異形の正体は、並行世界のプレイヤー自身であることが発覚する。彼もまた、自身の世界の大切なものを守るために戦い、変わり果てた姿となったに過ぎなかった。

決着ののちに、彼はプレイヤーに或るものを託す。その或るものとは、プレイヤーという存在を象徴する形見のようなアイテムである。しかし同時に、そのアイテムはゲームプレイ上の有用性を持っており、プレイヤーは恩恵を受けることが可能である。……その形見が不可逆に消費されるのと引き換えに。

私がこのシーンに差し掛かった時には、さして葛藤することもなかった。迷わず「使用する」のボタンを押したのだ。何故ならばこのアイテムは、並行世界の自分が私に「大切なもののために使って欲しい」と願ったからこそ託されたものに違いない、と考えたからである。ひと思いに使ってしまうことこそが、彼の願いを成就することに繋がる。そう考えて疑わなかった。

しかし……今日、とある友人が同じシーンに差し掛かって、こうつぶやいた。「使えるわけがない」。彼ばかりではない、プレイヤーの大多数は「使わない」という判断をしている。並行世界の彼から託されたものを、そのままの形で残すことこそが誠意であると、彼らは考えたのだ。……あまりにも総意がそちらへ傾いていることに、私は戸惑った。そして同時に、このようなことはこれまでもあったな、と思い出した。

 

或るアクションゲームでは、プレイヤーは唯一の身内である叔父と親子のように慕い合う関係にある。ところが、物語の荒波に揉まれる中で、プレイヤーは己の掲げる正義を成し遂げるために反逆者となり、政治的立場と思想において、叔父と対立する間柄となってしまう。

クライマックスの一騎打ちで、プレイヤーは死力を尽くして叔父に打ち勝った。すると叔父は、義理と誉れにかけて、自身を介錯するようプレイヤーに命じる。……信頼しあう「親子」が引き裂かれてしまった運命に、はらはらと涙を流しながら。……プレイヤーは選択を迫られて苦悩する。叔父の誉れを重んじて、自らの手で叔父を斬るか。それともやはり、親子の情は捨てられないと、生かしたまま立ち去るか。

このシーンに直面したとき、情に厚い私の友人は、生かすことを選んだ。例えそれが叔父に恥をかかせる判断であったとしても、やはり……愛や絆に誓って、彼に手をかけることはできないと。

しかし、私は違った。迷わず叔父を殺すことを選んだ。大切な人物の命を奪うことにおいて、私自身が動揺しているかどうかは関係がなかった。「斬られることによって生き様が成就される」と、そう叔父が心を決めたのであれば、それにしたがってひと思いに斬ってやることこそが、最も彼を尊重した行動になると考えたのだ。

 

また、別のアクションゲームでは、クライマックスで二人の主役が殺し合うときに、どちらを操作するか? という選択肢が提示される。

一人は、ゲームの序盤から長らく主役を務め、プレイヤーと近い距離で冒険を共にしてきた少年。元は純粋で憎めない少年だったが、或る女性との悲劇的な別れを経て情緒が破綻し、最終決戦の頃には復讐鬼と化してしまっている。

もう一人は、その「別れ」でロストした女性と入れ替わる形で、後半から主役になった女性。諦めのような冷たさを持つ彼女だが、亡くなった女性が遺した優しい想いに共鳴するところがあり、暴走する少年をこの手で止めてやらねば、と考えている。

悲しみ、憎しみ、愛おしさ……人間らしいさまざまな感情が交錯する。……そして私は、私の操作を受ける権限を、女性の方に与えた。絶望の連鎖を断ち切りたい。最後に待つものが世界の破滅に代わりないならば、私は「狂っていない」方の主役を生き残らせたい。そして、冷静沈着な澄んだ心で、物語の結末を見届けてみせる。そんな思いで私は、長く旅を共にしてきた少年に真っ直ぐ剣先を突きつけて、思いのままに切り刻んだ。

しかし、私の友人は逆だった。たとえどんなに復讐に狂い、理性を失っていたとしても、彼にとっては少年こそが、長らく自分の感情を重ねてきた大切な存在であった。彼は少年の絶望を代弁するかのように、激しく立ち回った。向かってくる女性の不器用な優しさなど、これっぽっちも要らない。何も信じられない、全てを奪った世界を、ただめちゃくちゃにしたい。そんな少年の想いに、彼は最後まで主人公の格を託したのである。

 

これらの経験から明らかになることはなんだろうか。

まず、友人の場合。彼は何より「自分」を見ている。自分自身の感情に照らして、より素直な選択はどちらか? 自分が大切にしたい気持ちや、大切にしたい人を守れるのは、どちらか? 彼が己自身に問いを立てれば、自ずとその結果は「親しき者や愛着のある者に手はかけられない」という方向に傾くのだ。

それに対して、私は……私は、「相手」を見ている。或いは「世界」を見ている。価値判断で最も重きを置くべきは、狂気への同情や、個人的な愛着ではない。眼前にいる対象の願い(意地)を、この場で叶えてあげること。「終わり」を望む相手には、きっちりと終わりを与えてあげること。平静に、時には冷酷に。自らの手で相手の息を止めることになったとしても、私は「望みが叶った平穏な結末」のために、迷いなくコントローラーを握りしめるのだ。

 

生かすか、殺すか。そのままに遺すか、糧にして前を向くか。……問われているのだ、一人一人の判断が。そう判断した、根拠が。