568日目 【書評】『イーハトーブ釣り倶楽部』と、無関係の雑感

 

 

イーハトーブ釣り倶楽部』はフライフィッシャーの村田久氏によるエッセイ集。生まれ育った馴染み深い岩手の川、山渓を舞台に、釣りの特別な思い出や山村の人々との交流を描いています。

 私はエッセイに親しんで少年時代を過ごし、同時に「イーハトーブ」の名付け親である宮沢賢治にも触れてきました。だからこそ、多少の期待を持って本書をチョイスしたのですが……。

 

 まず第一に、本書は純然たる「趣味人のエッセイ集」であり、幻想の香りは一切ありません。何なら、イーハトーブという言葉は一度も出てこない。宮沢賢治の童話や遠野物語のような、じんわりと引き込まれる創作・伝承の類ではなく、あくまで釣り人が「〇〇川のイワナを△△を餌に釣った」という素朴な思い出を語ったものなのです。

 それから、筆者は土地や釣りの知識に長け、その筆致はディテールに富んでいて。そして何より、純朴ゆえオチがないのです。同業者のフィッシャーマンが読めば「ああ、なるほどね」とニヤリとするのかもしれませんが、ニュータウンに育ち都市の大学に通う私には釣り人特有の機微が分からず、目が滑るばかり……。

 

 このように、本エッセイ集を読み終えるまでの道のりは、今月の読書の中だと相対的に疲れるものでした。……しかしながら、私はひとつの見識を得たのです。

 郷愁や幻想というものは、決して劇的なものではなく、むしろ平坦な生活から地続きの延長上にあるものなのではないか、と。

 

 私は今日、所用で旧居の近くを訪れたので、ついでに旧居近くの通りや河川敷、馴染みの服屋などに顔を出してきました。

 およそ一年振りに見る景色はさぞかしナイーブな心を震わせるだろうと思っていましたが、何のことはありません。車は走り、カップルは歩き。川はせせらぎ、鴨が流れてゆく。あるべき光景がそこにあって、決して失われたりなどしていない。

 良くしてくれたアパレル店員さんとの再会は、少なからず胸に響くものがありました。去り際に手を振ってみたら、彼は営業スタイルのお辞儀を取りやめ、はにかんで手を振り返してくれて。それが嬉しかった。だけれども、これが人生の最終回で、そのままノスタルジー物語の幕が下りるわけではありません。彼にも私にも、それぞれの生活がこの先に続いていくのですから。

 こうして、旧居を慕う感情はすっかり打ち砕かれてしまいました。……ところが妙なことに、私はむしろポジティブな思いを抱いて帰路に就いたのです。

 

「ふるさとは遠きにありて思うもの」。私はこれまで個人的に、この言葉を「遠く離れたからこそふるさとが慕わしく思えるのであり、実際に帰ってみたら大したことはない」と解していました。けれども、ここに新たな解釈を加えようと思います。「ふるさとは心の中だけに残された遺物などではなく、その気になればいつでも帰れる場所にある。だからこそ、その地続きの感覚に安心しながら、前向きに次の世界へ踏み出して行こう」と。

 いささか話が逸れましたが、本書『イーハトーブ釣り倶楽部』も著者にとっての「地続きのふるさと」を記したものなのかもしれませんね。いや本当に、今日は話が逸れまくって申し訳ないのだけれど。