969日目 水色

 

アキバ系のぶかぶかパーカーが届いたので、秋葉原に行ってみる。

本来の意味の「アキバ系」とは、きっと違う。僕はアキバ文化のなんたるかを知らない。文脈も何も分からない外野の新参者の立場から、山手線なんかでたまに見かけるちょっと攻めたサブカルチックなファッションの女の子を指して「秋葉原に居そう」と形容する。

そのくらいのふわっとした認識ではなかなか手を出せるものでもあるまいに、今日僕は見様見真似で「水色界隈」風の目覚ましく透明なモチーフに身をやつして、白昼のホームに各駅停車を待っている。ヴィヴィッドでコスプレチックな服装を学生のうちにこそ楽しんでおきたいと最近考えていて、けれども大学で「そういう先輩」になりきるのはまだちょっと怖いから、まずは秋葉原という非日常でベンチマークを回してみようと、そういう魂胆がある。

車窓を流れるトーキョーのビル群。膝に抱えたリュックの中にはサイバーパンクSFの金字塔『ニューロマンサー』を忍ばせてある。世界中のサブカルチャーが憧れる近未来都市の原型は間違いなく東京にあって、シブヤ、カブキチョウ、その中にアキハバラも数えられている。類稀なる典型中の典型として「おのぼりさん」を、それも自信満々に演じ切ろうとしている僕を乗せて、電車は間もなく秋葉原駅の2階に滑り込む。

 

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いつも馴染みの電気街へと中央通りを渡らずに、鋭角に曲がって駅そばの高層街区へ入る。行く人も来る人も立っている人も、誰もが一様に小さな興奮を抱えて、どこの街にもない秋葉原ならではの非現実感の中を歩いている。その多国籍な人混みの間を縫って足早に、溶け込むでもなく目立つでもなく、僕はすたすたと行く。

 

一棟まるまるがアダルトショップのビル。見るものにいちいち刺激を感じるのは初めの数分だけ。降りても上ってもあらよあらよ、めくるめく肌色と極彩色のコントラストが壁じゅうにひしめく。見て触れて囁いて遊ぶあらゆるヴォリウムが、社会動物の繊細な美徳の心を麻痺させる。

怖いもの見たさで入って来て息を呑む痩せぎすの少年。薄く微笑みながらランジェリーを物色する欧米系のカップル。玩具の棚に群がる青年たちの輪から中国語の談笑が聞こえる。

階段室にたむろするヨーロッパ風の爽やかな男が、目を惹く文言をシャツの胸元に見せつけていた。

 Things will change
 物事は変化します

 

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中央通りの両側を行き交う人々の群れを漁場に見立てて、コンカフェ嬢が数メートルおきの長い横列を作る。一方で、キャッチに捕まって話を聞きつつじっと嬢の顔を見定めている陽気な男たちの様子は、むしろ獲物を前にした猟師のようでもある。連れ込む女たちとあしらう男たちが互いに腹の中の毒を隠したままにこやかに五秒のコミュニケーションを繰り返す、きな臭くアンカンファタブルな一本道。

いつもは見向きもされないのに、今日に限って幾度も「お兄さん。待って、待って」と追いすがられる。異国の集団客ばかりの白昼にあって、僕の格好はいかにも一人ぼっちで、暇そうで、なおかつ話を聞いてくれそうな程度にはアキバを楽しんでいるように見えるらしい。けれども、突然見知らぬ女の子と、まして金づるを探して目をギラギラさせている女の子と気さくに喋れるほどの、勇敢さや寛容さを僕は持ち合わせない。無視をするのは忍びなく、軽く会釈を繰り返しつつ、ゆっくりと間をすり抜けていく。けれども呼び止める声はまた近寄ってくる。「待って、三秒だけ」。ちりちりと痛んで焦げ臭い胸の奥。

「ちょっと帽子のお兄さん」。いよいよそれは僕のこと以外にあり得ない。ついに勇気を出して振り返った。笑顔で応じて、一、二交わした——のち、長身で色黒の嬢はすぐさま僕を見限って、さよならも無しに定位置へ戻った。そういうものだ。どのみち釣れない魚と言葉を交わしたところで、漁師にとっても損な時間。それこそが金銭の授受によってのみ成立するドライな奉仕契約。だから、二度と僕は耳を傾けなかった。たとえ非情と言われようとも、僕なりに思いやった振る舞い方として。

 

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陽が落ちて、夜にかけてのターミナル。文化拠点である以上に、秋葉原は交通の結節点。見渡す限りのビジネスワーカーやラフなペデストリアンの中で、この身に纏うヴィヴィッドなコンセプトは場によく馴染むというより、むしろ一種の特異な象徴として街を彩る側に立っていることに気がつく。それならそれで正解なのだ——なりきりに過ぎなかったとしても。まるでサイバーパンクから抜け出てきたようだと、誰か一人がどこかで僕を見初める、そのときにこの服が果たす明確な役割。あるいは誰もこっちを見ていなかったとしても、きっと見つけてもらえた、自分が新しいナニモノかに孵化を遂げたと肯定的に妄信できるだけで、僕は。

 

帰りしな、珍しくもない馴染みの顔に会った。この胸元の水色を見るなり、ぴんと指を差して君は言った。「なんか、メンヘラ感あっていいね」。上等さ、と僕は指をひらひら振った。