525日目 教科書を売る

 

教科書を売り払うことにしました。

悪い夢見に飛び起きて、朝のベッドで目をしばたたかせながら、ふと天啓のように決心がついたのです。

 

元々私は断捨離が好きというか、物持ちが悪い人間です。けれど、本というものに関しては例外で、どんなに重い専門書でも、えんやこらせと新居へ連れてきていました。

まだ中高生で地元にいた頃、親父が口癖のように言っていた「本は財産だ」という言葉に、私は大きな影響を受けました。親父は自身の大学時代の教科書に始まり、働き始めてからも購読し続けているジャーナルに至るまで、ありとあらゆる書籍を後生大事にでっかい本棚に仕舞い込んでいるのです。床が軋みそうなほどうず高く積み上げられた専門書の塔は、大層誇らしき景観のように思われました。「本の知識はいつか必ず役に立つ。教科書は一生をかけて大切にすべきものなのだ」と私は学んだのです。

 

けれども、今朝の私は冷ややかでした。「要らない」という率直な感情が、不意に頭をもたげてきた。

 

「いつか役に立つかもしれない」

いえ、大学を出た後の人生において、私が同じ講義を受け直すことなど万に一つも無いでしょう。そして、当の受講時ですら出番がなく、配布資料にすっかりお株を奪われていた専門書が、後々になって急に救世主となる確率はどれほどのものでしょうか?

「そのうち自分で勉強したくなるかもしれない」

テスト前にちょっと過去問を見るくらいのことしかやらない人間が、今になってイチから教科書を読み始めるだろうとは、私には到底思われない。それに、仮に再勉強の機運が高まったとしたら、私は難解で局所的な専門書ではなく、もっと平易でとっつきやすい市販の参考書を買いに行くでしょう。なんせ教科書は、教授の解説があったとて理解できない代物なのだから。

「思い出は大切にしたほうがいい」

結局のところ、古本を保管する動機はこれに尽きます。世話になった本を手元に残しておきたいという、愛着の話になってくる。現に私は文芸書の類に関しては、わざわざ実家から引き取ってまで大切にしているのです。

けれども……大学の教材に対して、私は恩義を感じていない。開いてみもしなかった本ばかりだし、珍しく読もうとしたって、ますます憎しみが募るだけだった。オンライン化の流れにあって、教員ですら「買わなくてもいい」と零す始末。そう、この分厚いばかりで身に余る専門書に、思い出なんぞ無かったのでした。

 

先々の進路、分野のことを考えながら、思い切って教科書の区分けをしました。ごく一部の、きわめて基礎的でギリギリ理解できうる入門書を除いて、ほとんどの本が段ボールの中に押し込まれて封をされました。

読まない専門書をずっと持っていたって、引っ越しの荷物が増えるだけだ。……分からないことを調べる方法は今時いくらでもある。……万が一、天文学的な確率で「やっぱり必要だった」となっても、そのときはまた自腹を切るだけだ。……それに、私が希少な本を手放すことで、中古価格で手に入れられて喜ぶ後輩もきっといるだろう。

山ほどの論理が私の決意をますます固くします。明日、回収業者が来てくれるよう予約を取り付けました。

 

それなのにこんなにつらつらと思いの丈を記述したのは、知識を捨てるという罪悪感が拭いきれないからなのです。