三年前の冬の写真です。
ゲームの要求スペックの上昇著しく、今や紛れもないロートルと化した我がPCですが、振り返れば確かに出来たてホヤホヤの「自作」だった頃がありました。
時の首相が十万円を給付してくれたのだったか、決定打は定かではありませんが、何はともあれ引きこもり逞しい二年生の私は意を決してPCの自作に乗り出しました。東京住みなら秋葉原に行ったのでしょうが、当時の拠点は関西。となれば行先はひとつ、大阪・日本橋(にっぽんばし)です。
そうそう、当時はこうやって、大学指定のコンパクトなノートPCに、およそ不釣り合いなでっかい格安テレビを据え付けて作業をしていたのでした。メモリが8GBだったかな、忘れたけど、3D描画なんかにはいささか心許ない。
東京からはるばる助言にやってきた友人に手を引かれるようにして、ツクモ、ドスパラ、ソフマップ、有名どころのパーツ屋をあちこち回りました。
私は即断即決の質(たち)なので、さして時間もかからず帰宅したのではなかったか。両手に大きな紙袋を携えて乗りこむ大阪メトロは、ほんのり暖かく感じました。
PCパーツを買ったら綺麗に並べて写真を撮る、とは誰が始めたカルチャーなのでしょうか。今見てもなかなか構図のセンスがあるように思える。末広がりでよろしい。
およそこの頃くらいだったか、きっと誰しも身に覚えがあるでしょうが、理系の学生にはつきものの「ガジェットを揃えたい」という欲求の全盛期に私は差し掛かっていて、やれRAZERのヘッドセットだとかPS4だとか、薄い財布とにらめっこしながら黒光りする機器を集めたものです。借り物の「子ども」だった自分を、自ら選んだものたちで「自分」として構築していく、そんな一人立ちの芽生えを感じさせるロマン。
どういう手順で何をどうやって組んでいったのか、たった一度の流れだったのですっかり忘れてしまいましたが、ただメモリを差し込むときに折れそうなくらい力を込めなければならずヒヤヒヤしたのと、友人がプラスドライバーで思い切りマザーボードを引っ叩いたら虹色に光り出したのを覚えています。
パーツを買ってから一休みする暇もなく、その夜のうちにPCは着々と組み上がっていきました。
フォンフォンと唸りを上げるファンに、メタリックな輝きを放つ基盤。ケースは片側が全面アクリル板で、機構が隅々までよく見えます。これで一番安いケースだったのだから、上手い買い物をしたものだと何度も言い合ったものです。
ライティングは青と黄色にしました。これは当時の推しカプ――今ほど「推し」という言葉は流行っていなかったでしょうが——になぞらえたものです。現在はピンクと青になっていますが、いつ変えたのだったか。色の由縁が分かる人もいるでしょうか。
有線がおすすめだと譲らない友人を、部屋の配置がためと説き伏せて、無線の受信機を取りつけました。マザーボードに拡張カードを差すというのは彼にとっても経験がなかったはずで、私は鼻高々でした。なんとまあウキウキして爽やかな記憶でしょうか。
ちょっぴりの背伸びがあって、こだわりがあって、少し人と違っているのが嬉しい。何かを始めたばかりの誰もに訪れる、フレッシュな天狗の季節。
痺れるハードコアサウンドと噴飯もののシュールなMVに出会ったのもこの頃だったのか。そうだ、夜中にゴミ袋を持って出たら雪がしんしんと降っていて、そのとき聴いていたハードコアが冬の記憶と結びついたのもこの頃? いや、次の冬だったか。
DJ Noriken vs MASAKI - QiXiN MAdN3ss 2153 - YouTube
何はともあれ、こうして私の静かな一部屋の庵に自作PCの彩りは添えられて、今日に至るまでのささやかなオタク趣味や、日々の日記の執筆を支えているのでした。
それにしても、一体どうしてPCを組もうと決心したのでしょうか。夏にPS4を買ったばかりでまだ飽いてはいなかったし、Steamのゲームでどうしてもやってみたいタイトルがあった覚えもないのですが……(確かCONTROLというゲームを最初に遊びました。心底つまらなくて、ベンチマークにしかならなかった思い出)。
……などと記憶を辿っていた矢先、一枚の写真をフォルダの中に見つけました。
そうか、MMDに凝っていたんですね。
余談ですが、リリース直後のウマ娘に気まぐれに手を出して、ダイワスカーレットに心を奪われたのもこの頃でした。
過去のフォルダを漁ってみれば、今の暮らし・趣味につながる足跡が残っているものですね。