409日目 冬の気配は、しづかに

 

いつものTシャツにロングパンツを穿いて外へ出ると、ひんやりと冷たい風が私の腕を撫でました。

 

どうも、きりちにです。毎年この季節になると、思い出したかのように言う言葉があります。

「夏は届かないエモさ、冬はありあまるエモさ」です。

 

夏という季節が切なさを呼び起こすのは、多くのジャパニーズ・オタクに共通する感覚でしょう。思い浮かぶのは、山野の田んぼと雑木林。縁側に座ってスイカを食べながら空を見上げた、大切なあの人とのひと夏の思い出……。

このような「存在しない思い出」に胸を高鳴らせたり、あるいは苦しくなったりするのは、サマーコンプレックスという言葉が作られるほどには一般的なこと。これを私は「夏は届かないエモさ」と表現しました。あの子の笑顔も海も花火も、手が届かないからこそ、眩しく感じられる季節。

 

しかし、冬は少し違います。集団幻想のような原風景が思い浮かぶことはありません。代わりに、あなた自身が記憶している思い出が、孤独が、肌を刺す冷たい空気によって呼び戻される……。

そう。冬というのは、懐かしいあの夜を想い起こさせる季節。だから「冬はありあまるエモさ」なのだと、自転車で風を切りながら私は呟くのです。

 

 

思い出すのは、あの中学の夜。遠方から通っていた私は、毎晩バスと電車と自転車を乗り換えて、夜空の下を帰っていました。

部活終わりの疲れと眠気。そんなものを弾き飛ばすほどの、瑞々しい「オトナ感」への憧れ。私はよく途中下車して、イルミネーションの灯る市街地を歩いて、街で一番大きな書店に向かいました。

新しいシャーペンを買って、喜びに胸を躍らせながら通りへ出たときの、冷たく光る冬夜の空気——ひとりっきりの孤独——。

あれはきっと、私が懐かしむあの寂しさはきっと、間違いなく冬でした。

暗い通りを駅へと歩く道すがら。一時間に一本の電車を待ちながら、貴重なおこづかいで買ったファミチキを齧った、人っけのないガラス張りのホーム。今に続く「ネガティブな安らぎの心理」は、きっとあの夜に覚えたものなのではないかと、私はそう思うのです。

 

大学生になってからも、冬の思い出はたびたび生まれました。

特に一年の冬は、まさしく初めて本気の「オトナごっこ」に酔いしれた冬。深夜コンビニに胸を高鳴らせたり、当時はまだ参加していた文芸サークルの飲みの帰りに、一人で笑いながら河川敷を駆けたり。なれど、一人暮らしの所在なさに胸がしんみりと痛んで、夜のだだっ広い食堂でかき揚げうどんを食べながら、つくねんと冬夜に耽ったりもしました。

日記をつけ始めてから迎えた昨年の冬、すなわち三年の冬に関しては、ハッキリと浮かび上がる記憶もたくさんあります。六時間勤務のバイト終わりに、牛丼屋を目指して自転車で駆け抜けた、雪降る深夜の帰り道。白く積もった銀世界に大はしゃぎして、スマホを失くして大変なことになった、真夜中の河原。そして、初めて顔を合わせたフォロワーたちと積もる話をしながら練り歩いた、春も間近の東京の夜……。

 

 

……思い返せば、冬というのはいつだって夜でしたね。そしてきっと、これからもそう。

これから九月が終わって十月が始まり、それから年末に向かって、季節は冬へと移ろっていきます。今年はどんな思い出が生まれるでしょうか。おじさんになったときの自分が切なく思い返すような、そんな大切な記憶と感情を、ひとつでも。

 

その嚆矢として、今夜はこれから少しだけ、コンビニまで散歩しようかなと思います。

まだ夏は残っていて、冬というには暖かすぎるけれど。私の肌はチクチクと、来る冬のしづかな気配を感じているから。