967日目 ぽかぽかなのら

 

ぽかぽか。お日さまぽかぽかなのら。

ほんのうっすらと汗をかくくらいの、春がやってきた。

今年いちばんのぶかぶかなシャツを買いに、僕は家を出た。

 

生活圏、ということを考える。

ある街にある施設があって、ここには〇〇町と〇〇台の人々がやってきます、と計画に入っている。人の行動はもっと自発的で、一人ひとりが自由自在なもんだ。近いとか便利とかで大づかみに決めつけた、群衆の「モデル」のとおりに行くもんか、と反発する心が芽生える。

ところが、日頃自分が出かける先を考えると、その動きはものの見事に「モデル」の範疇に収まっている。買い物や軽食は徒歩圏内。ちょっとのお出かけは、ふた駅となりの商店街。一路線内で済む用事なら、いつも同じ大型駅の、あのショッピングモールへ。能動的な冒険の心を持たない日々の偶発的な行動は、すべてが計画者の手のひらの上。

否、自発的に起こしたつもりのイレギュラーさえも。生活する人々のすべての行動は、誰かが張った何らかの網にかかっているもので、そこから完全に意表をついて「群れ」の外へ出ることは叶わない。

生活圏という仮想の概念で案外ほとんどが説明できてしまうと気づいたとき、僕の暮らしはふいにつまらないモノクロームに染まる。見開きで全てが事足りる薄いアルバムのようで。

 

ともあれ、僕は出かけて行った。

 

 

河原の駅とつながった屋外型ショッピングセンターは大盛況で、行きかう人の流れをぬるく避けて躱しながら、僕はいまいち絵にならない写真を撮る。

涼やかな広い歩道に、片面の空を覆い隠すようなビル群の間から、気持ちの良い風が吹いている。河原の漠然とした「良さ」だけを呼び込むには、むしろ河面を見せない方が上手いのか、と不思議な納得がある。

サーティワン・アイスクリームの外に長い行列ができている。これすらも街の作り手は見越していたろう。と思うときの、くやしい喉の渇き。

 

 

映画館にふらりと足を踏み入れ、ポップコーンの匂いを嗅ぎ、何も観ることなく外に出る。屋上にあがると簡易なビオトープがある。しゃがみ込んで水面に目を凝らすと、メダカが一匹、アメンボが一匹いた。瞬きの間にアメンボはどこかへ滑って行ってしまった。

行くところ行くところにカップルが並んで座り、パパが娘を追いかけ、ママはベビーカーを押さえて空を斜めに見上げている。お手本通りの顧客層。それに比べると僕はまだ、連れもいなければ金もない、シャツ一枚買ったっきりの、ちょっと品のない服を着た、カタログには載っていない存在といえて。その気持ちを身軽さと呼ぶのか寂しさと呼ぶのかは分からなかった。

 

 

手動で明度を上げてシャッターを切る。宣材写真のようにまぶしい春の日のショッピングセンター。

僕は俄かに満足した。誰にとってもあたたかいこんな陽気の日に、特段なにかユニークであろうとする必要は無かった。

地上階に降りて人の群れの中に交じり、エスカレーターの列と同化して、同じ列車に乗って帰りの駅へと揺られる。こんなターミナルよりもっと静かな街で、バニラシェイクのテイクアウトをと心に決めて。