突然だが、自分語りをすることを許してほしい。なぜ「許してほしい」なのかというと、求められていない自分語りとはみっともないものだからだ。
承認欲求をベースに今日の日まで生きてきた。
ガキの頃はとにかく目立ちたがり屋で、とにかく誰よりも自分を押し出すことを旨としていた。授業中に手を挙げた回数が多いほどヒーローになれると思っていたタイプだ。冷静になった今だからこそ分かるが、ありゃKYかガ〇ジだ。幸いなことに、小学生だから「面白い子ね」で済まされていた節がある。
目立ちたがりの悪癖は中学に入った直後も余すことなく発揮されていたが、中2の後半頃だったか、あるときを境に突然「恥」の感覚を知った。思春期と言うやつだったのだろう。以来、私は表舞台で猿のようにアピールするのをやめ、クラスの中でもマイナーな奴やオタクとつるむようになる。「陰」への転落である(無論、サブカルのおかげで面白い仲間たちと巡り合えたので、後悔は無いのだが)。
では、一転して陰キャとなった少年ぼくは、きれいさっぱり承認欲求と訣別できたのか? もちろん、そんなことはなかった。むしろ、オタクの世界には「創作」という、根暗な自己実現欲を爆発させる遊びがある。
我々同期は中途半端に行動力があったものだから、そういう「ネットの人気者になろうぜ」的な発想を実行に移すだけのアレがあった。わざわざハンネを凝ったりして、SNS運用などを試みたりもした(もちろん削除済み)。恐ろしいことに、一時期は本気でゲーム実況者になろうとしていたのである。あと一歩踏み外していたら、聴いていられないほどド下手くその「歌ってみた動画」すらアップしていたかもしれない。
余談だが、僕は中高生のクリエイターにあまり良い印象を持てない。もし彼が下手だったならば、過去の自分を思い出して恥ずかしくなるから。もし上手だったならば、自分とは違う勝ち組なのだと悔しくなるからだ(我ながらダサすぎる話だ)。
一般に「創作とは素晴らしいことだ」「上手くなくても気にせずどんどんやろう」という風潮があるが、僕は部分的に異議を唱える。クリエイティブな活動を頑張ること自体は非常に楽しいし価値がある、これは間違いない。だが「楽しいから」ではなく「承認されたいから」やるタイプの自意識過剰な少年の場合、十中八九クソデカな黒歴史を抱えて発狂しながら生きていくことになるからオススメしない。
話は戻る。
かくして、自意識暴走車となり自分の顔をネットにばらまく事態こそ免れた。だが、それくらいで折れるような賢い少年ではない。今度は「正体不明のコンポーザーになったら良かろう」と考えた。実際に何曲か作って、動画サイトに投稿している。この行動力自体は評価しても良いと思う。
だが、今現在全く音楽をやっていない時点でお分かりであろう。俺には才能が無かったし、才能の差を覆すために努力を重ねるだけの根気も無いのである。作曲に限った話ではないが、俺の努力偏差値はたかだか30くらいしかない。今の自分がやっていることは、元々向いていたことか、無理矢理やらされて覚えたことかのどちらかである。できないものを自らの努力で逆転したなんてことはただの一度もない。
少し順番は前後するが、大学生になってからのごく一時期にはMMDにハマったりもした。だが今では、一番手間がかかった動画以外は全て非公開にしてある。なんでも初めは「こんなものが作れる自分ってすごい!」になるものだが、後から振り返れば大抵は恥ずかしい出来である。作った本人は「頑張った」ことを自信としているが、頑張ったかどうかは作品の面白さに全く関与しないのだ。
承認欲求で生きている人間は、自分の評価を貶めそうなものに関しては一刻も早く世界から消し去ろうとする習性を持つものである。情けない話だが、自分すらも「稚拙だな」と思ってしまうような動画を公開し続ける胆力は、僕には無い。
さて、高校時代に話を戻そう。僕が行きついたのは文芸であった。文芸部と言えば、自分の中だけでイキイキしている陰キャたちの楽園だ(とネガティブに書いてみたが、実際のところたいへん快適で楽しい空間であると思う)。
ここでも僕は大量の黒歴史を生産しようとしていた……はずであったが、事態は少し違ったことになった。まず、音楽や美術と違って、日本語というものは誰でも十数年間使い続けてきたものである。つまりはある程度扱いに慣れているということだから、目に見えるレベルの大恥を生み出すリスクは低かった。
そしてもう一つ、これが大事なのだが、僕にはたいへん優秀な指導者がいたのだ。一般に、黒歴史になるような創作は独りよがりとか自尊心とかのせいで爆誕することが多い。だが、まっとうで冷静な視点を持つ大人のサポートを受けることができれば……。
そういうわけで、これまで数多の分野にちょっかいを出しては痛い傷を負ってきた少年ぼくが、ようやく初めて「まあ嫌いにはならないで済むかな」という創作ジャンルにありついた。それが文芸だったのだ。
いや、ちょっと待ってほしい。心配せずともよろしい、これは「いい話だな~」で終わる日記ではない。
去年の夏頃から日記を書き始めて、今年はSSにも挑戦するなどしてきた。もちろん、ある程度の自信を持っているからこそ400日以上も続いている。学問や進路のことは散々だが、趣味に限れば順風満帆の生活をしているようにも思われるだろう。
だが、時々ハッと怖くなるのだ。
こんなに満足げにキーを打っているこの間も、実はしょうもない恥さらしの文章を生成しているのではないか? 面白いと思っているのは自分だけで、端から見れば愚にもつかない自意識過剰男性なのではないか? あるいは、今は書くことそのものを楽しめている小説の類も、そのうち閲覧数ばかりが気になるようになってきて、承認されることだけに一喜一憂していた恥ずべき思春期時代に逆戻りしてしまうのではないか?
……そういう不安をたびたび抱える夜がある。僕があからさまに内容の薄い日記を書いている日は、大抵は単に書くことがなかっただけだが、時には「急に自分のことが恥ずかしくなって、何も書きたくなくなった」というパターンもあるのだ。
そんなある日のことである。さる友人の一人と飲みながら会話していたときに、どんな流れだったか、僕はかなりざっくりとこういうことを言った。
「こんな日記によく毎日いいねしてくれる人がいるもんだよな~」
すると、彼は即座にサラッと、こう答えたのだ。
「だって面白いからね」
……正直に書こう。
僕はそのとき、バチクソにバチボコに嬉しかった。
その感情を認めることは、自分が承認欲求の塊のまま変わっていないことを認めるようなものだが、そうだって一向に構わなかった。
嬉しかったのだ。少なくとも、日記だけは……物書きだけは、この先も黒歴史にならないで済むのではないかという予感が。それならば、物書きだけは嫌いにならないでいられるという安心が。
今、僕はタイムラインの何人かにも同じ信頼を寄せている。単なる習慣ではなくて、きっとあなたにとって得るものがあるから、毎晩読んでくれているんだろ? そうだと言ってくれ。そうであるならば、僕はとっても嬉しい。自己肯定感の高かった試しがほとんどない僕にとって、あなたの言葉はかけがえのないエリクサーになる。
たとえ1いいねしかつかなくても書き続けている理由が、ここにあります。たとえウマ娘の二次創作より遥かに閲覧数が少なくてもオリキャラ創作を楽しんでいる理由が、そこにあります。
いつも読んでくれてありがとう。
ちなみに、承認欲求というのは創作に限ったものではない。自意識という毒は、例えば人間関係といった分野でも遺憾なく発揮されて、僕は数多の喧嘩や恥をやらかしてきた。本当に許してほしい(というか、忘れてほしい)。だが、その話はやめにしておく。
長い長い自分語りにお付き合い願いました。