214日目 グッドナイト・ライトサイド

 

カーテンを取り外すと、ぱっと視界が開けた。

午後の陽に照らされた街並みは明るく、車の往来が激しい。向かいのビルの白い壁が、ぴかぴかと目映く輝いている。

窓から見える街が、こんなにも眩しかったなんて。いつぶりに見る景色だろう。

 

「内」と「外」をきっぱりと区切って生きてきた。ここに越してきてからのほとんどを、カーテンを閉め切ったままにして。

初めの頃――たとえば大学一年の、初夏の昼下がり――には、開いた窓から吹き込む風に、来る夏休みへの希望を感じたりもした。けれど今はもう、そんなことはしない。

何もかもを部屋に籠もったまま消費し続けてきた日々。気づいた頃には、身近の友だちはいなくなっていた。余所からやってきた知人を連れて行くような、地元の隠れた名店なんてものも、ついぞ見つけることはできなかった。

そりゃあ、街並みを歩く機会が全くのゼロだったわけじゃない。大きなスーパーで買い物するのは楽しいし、たまには夜の河原を散歩したりもした。けれど、そんなときの僕は「外行き」の顔をしているに過ぎなかった。「内」の僕は陰鬱で、臆病で……。何事も無い限り、僕は部屋に籠もることを選んだし、わざわざ新しい出会いを探しに行くことはしなかったのだ。

 

時折りバイクの駆け抜ける音が聞こえる。じき、夕方から夜にかけて、街は大いに賑わうだろう。

薄暗い部屋の真ん中に立って、カーテンのない窓の向こうの、明るい世界を見つめる。「内」の心が「外」の街とシンクロしていく。

本当はそこに、区切りなどなかったのだ。広々として旺盛な、心の「内」と「外」を併せ持つ人間にだってなれたのかもしれない。初めから逃れようとさえしなければ。

 

壁際にもたれるように座り込んだ。昨日まで当たり前のように続いていた「平穏」が、取り壊され、押し込められて、函に梱包されている。

いずれ引っ越し屋がやって来て、段ボールをも家具をも、全てを持って行くだろう。あとに残るのは、少しの着替えとわずかなお金と、床に転がったゴミ袋。そして、このノートパソコンだけ。

 

明日、僕はこの街を去る。

 

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引っ越し屋は嵐のようにやってきて、瞬く間に荷物を運び出していった。

お揃いのシャツをキッチリ着こなしたふたりも、何かの手違いで呼び出された警備員も。誰もがプロ然とした格好をしているけれど、その瞳は戸惑いに揺れていて。分からないことを誤魔化しながら働くしかない、そんな不安が見て取れる。

それを見ている僕もまた、右も左も分からないまま社会人になろうとしている、ちっぽけな若造に過ぎないのだ。

 

外に出るともうトラックは居なかった。暮れゆく街を歩いて、いつも馴染みのマックへ。

お店が多くて楽しいこの街とも、これで最後の付き合いだ。引っ越し先は閑静なところで、スーパーに行くのすら大変らしい。ましてやマックなんか……。きっと、チキチーやテリヤキが恋しくなることだろう。

いつもの習慣に則って、バーガーをテイクアウトした。部屋に帰ると、洗濯機も冷蔵庫も取り払われて、がらんどうの空間が広がっている。地べたにずっしりと腰を下ろして、背中に痛みを覚えながら紙袋を開く。

 

みるみるうちに日は暮れて、食べ終わる頃にはすっかり夜になってしまった。カーテン無き今、明かりを点けてプライバシーを大公開するわけにはいかない。暗闇に沈んでいく部屋にひとり、どうすることもできぬまま、しばし佇む。

思案の末、窓から遠いところに腰掛けて、キッチンの薄明かりを頼りに過ごすことにした。橙色の熱電球に照らされながら、パソコンのキーを叩いている。

 

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夜は、こわい。

ベッドに入って目を瞑ると、途端にネガティヴな思考が枝を伸ばしてくる。過去の恥ずべき行為が蘇り、未来への不安が流れ込んでくる。そして、死への恐怖が花を開くと、もうじっと寝てはいられない。

朝まで待てば、街の活動する音が聞こえてきて、やっと安心できるのだ。そうして初めて、僕は眠りにつくことが出来た。

逆にいえば、朝が訪れるまでの長い時間のほとんど、この部屋には明かりが点っていたのだ。眠らない住人の心を晴らすために、時には蛍光灯が煌々と、時にはデスクライトがしっとりと。

 

しかし、明かりの点かない今宵はどうだろう。

十八時頃にはもう日が落ちた。まるまる半日、この部屋は溢れんばかりの夜を抱え込む。朝が訪れるまで、長い長い夜の懲役に、僕は閉ざされる。牢獄の闇の重たさといったら。冷たさといったら。

来年の春から大学通いの毎日が再開するならば、もう昼夜逆転などしていられない。そうすると当然、僕は夜を受け入れて、暗い中に目を閉じなければならない。満ち満ちる恐怖に支配され、魘されながら。

 

今夜はまだ、夜に抗うつもりでいる。しかし、引っ越し屋が何でもかんでも持っていってしまったので、暇を潰せるものがない。

そこで、お試しがてら寝袋に入ってみた。床が硬くて、肩肘に無理があるようにも感じるが、なるほど悪くない。薄い生地の割には暖かい。じっと感触を確かめているうちに、食後の気怠さのせいか、まどろむ、たゆたう……。

棺に入れられた死体が、手足をぴんと伸ばして、息を静めている。棺は暗い部屋の中央に安置されている。死体は目を閉じて、安らかに寝息を立てる。かと思えば、時たび目を開いて、そこが裳抜けの殻となった、かつての住処であったことを思い出す。あちらに渡ろうとしては、こちらに引き戻されて。天に昇ろうとしては、地に降ろされて。

そうこうするうちに二時間ほども経っただろうか。いい休憩にはなったが、このまま眠って半端な時間に起きるようでは困るので、ごそごそと棺から這い出てきた。ここまで書き終えたら、体をほぐしがてら散歩することにする。

 

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いつもの見慣れた大通りを行く夜半。

三年前は何もかもが目新しく、わくわくして見えた。深夜のコンビニは「大学生感」に浸れる最高のアクティビティだったし、酒を飲んでみたくて自販機探しに駆けずり回ったこともある。

今では深夜徘徊の特別感は薄れてしまった。けれど、散歩が楽しいことには変わりない。今日はいつものコンビニを通り過ぎて、大通りの牛丼屋へ。ここも、よくブラックバイトの帰りにテイクアウトした、ある意味思い出の店だ。

「内」を愛しすぎて「外」に馴染めなかった、という寂しさはいつもある。けれども、心は確かにこの街を気に入っていた。入ったことのある店は少なくても、その奥手さまで含めて、まるっとここは僕のホームだ。もしかしたら夜の間は、この街全てが僕の「内」にあるのかも知れない。

そんなことを、ようやく胸を張って言えるようになった矢先に、突然この街との別れが訪れるなんて。ちょっぴり寂寥感を抱きながら、ネギ牛丼を提げて帰路を急いだ。

 

汁を吸って膨らんだ米をかっこみながら、キッチンのわずかな明かりに照らされている。ほの暗いところにずっといるせいか、今までずっと、世界が夜のままであったかのように感じる。

自然と苦しくはない。スマホを通して人々の活動が見えるから、心細くもない。でも、この街には僕ひとりだけ。だから、寂しくはある。今日に限らず、所在のない「寂しさ」はいつも胸の奥に。

 

感情を辿っていって、そして思い出す。僕は夜が好きだ。

明るい昼の情景をテーマにした、インストゥルメンタルの素敵な曲がある。けれど僕は、それを夜に聴く。透き通るような音楽で表現されているのは、眩しい太陽よりもむしろ、人っ子ひとりいない河原を包み込む、この夜空なんじゃないかと思う。

いつだって抱えているこの「寂しさ」と向き合うとき、僕はざわめきの昼を出歩くよりも、夜のしじまにひとりでいる方を選んできたのだ。どこか遠くで生きている誰か彼かの声を聴きながら、体はいつも一人きりで、夜の静けさに揺れていた。そういう意味では、夜は意外にも、とても親しいものだったのかもしれない。

 

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キッチンの明かりを消した。

暗い暗いと言っていたけれど、寝ようとすると今度は明るい。カーテンのない窓から差す街灯の光が、部屋の中をほの白く染めている。瞼を閉じても視界が白んで、ちょっと寝苦しいかもしれない。

けれども今夜は、この眩しさが心地良くもあるんだ。夜はこわいようでいて、実は優しい。白い光を静かに浮かべて、この街の夜は僕を照らし、別れの朝へ送り出そうとしてくれているのだから。

ならば僕からも、窓から見える最後の景色に、さよならの挨拶をしよう。

 

おやすみなさい、光の傍で。