48日目 今もまだ止まらないその時計

 

故郷のことを思い出すとき、そこには老いの気配が満ち満ちていました。

時間が止まったようにのどかな風景、慎ましく質素な田舎の家。

歳を取るにつれてみるみる衰えていく、祖父や祖母の姿。

「顔を出してあげなきゃ」。常にそう考えました。

私の心に浮かぶ故郷は、滅びへと続く「過去」の象徴だったのです。

 

しかし、時計は止まっていませんでした。

 

久々に実家に戻ってきた私。またしばらくは帰って来られそうにもないということで、今日のうちにと祖父母の家へ車を走らせました。

運転すること20分。そこに家はありました。消え去った過去の遺産ではなく、現前する住まいとして、祖父母の家は存在しているのです。

 

果たして祖父と祖母は生きていました。当たり前ですが、生きているのです。

しわがれて、手足が震えてはいるものの、世間話で盛り上がり、花の世話をして、ぶどうをちぎっているのです。それだけでなく、もっと高齢の親戚の家に通って、介護をしているというのですから。

アイスも食べるし、運転もするし、大声で笑う。田舎の時計は剛健に動いているのでした。

 

誰が勝手に、彼らを滅ぼそうとしていたのか。誰の妄想で、時計の針が止まっていたのか。

一人で暮らす孤独のうちに、私は人生の大きな流れを達観したつもりでいました。

この先に私が死ぬまでの道のりが待っていて、その歩みの中で家族は老いていくのだと。故郷を離れて3年が経ったいま、久々にこの目で見る田舎のあれこれは、既に死にかけているのだろうと。

しかし、それはあまりに先回りしすぎていました。

 

依然として時計の針はチクタクと鳴り響いていて、懐かしい人たちが生きている。

勝手に葬り去ってはならぬと戒めるかのごとく、あるいは高笑いするかのごとく、二本の足でしっかりコンクリートを踏みしめて、活気ある毎日を過ごしているのでした。

 

胸の中で凍結していた金具の、再び回り始める音がします。