49日目 灯台の光があれば

 

初めて親と酒を飲み交わしました。

度数わずかのアップルシードル。普段飲んでいる酒に比べるとジュースみたいなもんですが、うちの実家は全くアルコールを嗜まない家庭なので、珍しい盛り上がりかたをしました。

 

親父はかなりの下戸らしく、一杯ちょっと舐めただけで饒舌に語り出しました。

例えば、日本の政治や学問体系への愚痴。私も友だちと通話飲みをしていると真面目な話を繰り広げてしまうタチでして、親父の雄弁な語り口に自分の姿を重ね合わせて聞いていました。

それから、私の大学生活の土産話に関連して、親父自身の懐かしき大学時代について振り返ってくれました。堅物そうに見える男だけれど、学部生の頃は麻雀で遊んだり、タバコを日に何十本も吸っていたりしたとのこと。

私は正直、親父に対して信頼度100というワケではなくて、常に顔色を伺いながら相手をしているようなところがあります。しかし今日はたいへん心地がよかった。故郷を離れて一人、ダメ学生として日々を食い潰している身としては、親父の「昔は全然マジメじゃなかった」という独白に一種の親近感・安心感を感じずにはいられないのです。

 

 

日記を書きながらやり取りを反芻するうち、こんなことを思いました。人間は子どもを設けることで、生活に刺激を得ることができるのだと。

家族の形にはいろいろありますから一概には言えませんが、少なくともうちの親を見る限りだと、子どもがいることで仕事を頑張る原動力が生まれたり、過去の自分を語るなどの楽しみが生まれたりするようです。

「無償の愛」などという胡散臭い言葉を使う気はありません。しかし、人間は自らの分身たる子どものことを考えながら行動するし、ひいてはその努力が自分自身の人生にも華を添えてくれる。これは一定の信頼性がある事実のように思えるのです。

 

いつもより遅くシャワーを浴びながら、私自身のことを考えます。

今のところ結婚や子育ては先々のプランからバッサリ除外しているけれど、もし、これは本当にもしもなのだけれど、どこかのタイミングで自分の血を引く子どもがこの世に出現したとしたら。

きっと私の人生には「この子を一人前にする」という明確かつ強固な目的が生まれるでしょう。そして、この子のために頑張ることが、広い意味では家族や社会への恩返しにもなるでしょう。そうなれば私は、初めて自信を持って死ぬことが出来ます。

 

もちろん、これらは全て仮定の話ですよ。子どもは親の勝手な事情で生かされるべきではないし、私自身、恋愛→結婚→子育てという一般男性の王道ルートを辿りたくない事情がある。

でも、今日の楽しそうな親父の姿を見ていると、彼と同じ道を辿ることで私の人生にも灯台の光が見えてくるのではないかと想像してしまうのです。

 

目的地すら分からず夜の海を漂っていたとしても、灯台の光があれば、頑張って泳ぎ切ることができるかもしれないのですから。