行きつけのスーパーで、たびたび餃子を買ってしまう。
閉店間際で値引きされた、お惣菜の餃子。12個入り。
生のヤツなり冷凍のヤツなり、自分で焼いた方がコスパがいいのはわかりきっている。
でも、どうしてかカゴに入れてしまう。
どうしてかすごく旨くて、また食べたいと思ってしまう。
その理由にようやく気がついた。
じいちゃんの家で食べた餃子に似ているんだ。
自分がまだ地元で子ども時代を謳歌していたころ、親戚の集まりではみんなで餃子を包むのが習わしだった。
じいちゃんや親父、おじさんたちが麵棒で生地を伸ばして皮を作る。
ばあちゃんが仕込んだ肉のタネを、大人も子どもも集まってみんなで包んでいく。
そうしてできあがった何百個という餃子を、焼いたり茹でたりして食べたのだ。
餃子の形は包んだ人によって、お店の餃子のようにキレイだったり、不格好だったりした。自分はよくふざけて、巾着のように絞った変な形の餃子を作っていた。
手作りの皮は分厚くてごわごわしていて、破けてタネが見えているヤツもあった。でも、もちもちと弾力のある食感は、絶対に他のところでは食べられない味だった。
よく醤油と薬味を効かせたタネは、いつも変わらぬ美味しさだった。
あの懐かしい味に似た餃子を食べながら、さまざまに思いを巡らす。
親戚の誰もが、自分を見るたびに「大きくなったねえ」と目を丸くした。
そして必ず、こう言うのだ。「時が経つのは早いねえ」と。
子ども時代に別れを告げた今なら、その意味が少しだけ理解できる。
なかなか帰省しづらいこのご時世。しばらく会えない間に、じいちゃんとばあちゃんはどんどん歳をとっていく。
いつかもう一度、高台の懐かしい家に集まって、たらふく餃子が食べたい。
いつまでも、自慢の手作り餃子を食べるみんなの笑顔がそのままであってほしい。
地元から遠く離れた地でひとり、あれやこれやに思いを馳せながら、最後のひとつを食べ終える。