496日目 銀河鉄道の夜更け

 

長旅は嫌いだ。といっても、新しい景色を見ることそのものが嫌いなわけでは無い。9割がた体調のせいである。

思えば普段も、大学に到着するまでの1時間半の道のりはずっとそわそわしている。公共の函に押し込められている状況に緊張して、今にも腹が痛くなるんじゃないかと不安になる。そして実際に途中下車することもしばしば。

況や長旅をや、だ。まして一人旅ではなく、後の予定が決まっている出張の類になると、ローカル線だろうが何時間だろうが、途中で降りて休憩するという択を取るわけにいかない。

車やバスに比べれば施設が整っているだけ幾分かはマシかもしれない。けれども、切符に印字された到着時刻に目を落とすたび、あと何時間このままでいればいいのだと、憂鬱に窓の外に目をやって心を無にするのだった。

 

しかし、一日の内には必ず或るタイミングで「あ、今日はもうずっと元気っぽいな」と直感する瞬間があるものだ。本日のそれは、2本目の列車に揺られている夕方にやってきた。

こうなると急に、たまには旅もいいじゃないかと、朝とは真反対の感情が頭をもたげてくる。元来人間とは、未知の景色や匂い、温感に対して好奇心を惹かれる生き物らしい。体調さえ整えば、私にだって遠出を楽しむ心があるのだということを思い出す。

そして「旅情」とは、単に風景を見て感じる孤独のことではない。文化史跡を崇拝する者もいれば、名産品に舌鼓を打つ者もいるだろう。では私にとって旅情とは何かというと、例えば地理への関心であったり、交通システムへの驚きであったりするのだ。などということを考えつきながら、私は下車のアナウンスに耳を傾ける。

 

暗い冬夜の風が吹きさらす小さなホームに、今宵の最終列車がやってくる。白い息の向こうにぼんやりと浮かび上がるその車体は、さながら銀河鉄道を思わせた。

乗車してどっかり腰を下ろすと、車内は轟々とボイラーが焚かれて暖かく、窓には霜がついていてろくに外が見えない。これも地域特有の鉄道情景であろう。妙な納得が腹の底に落ちる。

それにしてもくらくらする。旅の最中はなるべく腹に物を入れるまいと思い、今朝からほとんど何も食べていなかった。エネルギー切れでぐったりした私を乗せて、ローカル線は銀河の中へと走り出していく。

 

 

ところで、大浴場での正しい振る舞い方は如何なるものか。私は未だに分からない。

まず体を洗い、一日の汚れを清めてから、そしていよいよ湯に入る。はて、そこからは何を考えて過ごせばよいのか。

情報社会にすっかり毒された私には、スマホも何も無い空間で延々と思考を膨らませることができない。肩まで浸かりながら考えることは、ただ「暇だ」というそれだけである。上せるほどではないそこそこの湯に浸かっていると、このままずっと入っているのが正しいのか、さっさと引き上げるのが賢いのか分からなくなる。

一人のときも手持ち無沙汰だが、仮に連れがいても同じである。風呂は歓談の空間にあらず、ただ「おお……」「うむ……」と唸るだけがコミュニケーションである。長く這入るほど気持ち良いというものでもないから、一分もすれば飽きてくる。けれども周りの者は立ち上がる気配がないから、そういうものかと思ってしばらく待ってみたりする。

結局のところ、湯船というものは実際に浸かってみると「なんか、そうでもない」。だから、無類の温泉好きという人種は不可解であるというか、尊敬の念すら覚える。一度聞いてみたいものだ、汝は一体どんなことを考えながら何十分も茹だっているのかと。