221日目 ボタニカル・ライク

 

一面の茶畑を眺めながら、ぎこちなくアクセルを踏むこと数十分。久々にやってきました、ここが祖母の家です。

田舎住まいの大きな庭に、赤・白・黄色、ピンクに紫、色とりどりの花が咲き。枯れた樹木の小さな子どもが、ひょっこり顔を覗かせて。名前を知らぬ雑草すらも、山の春風を謳歌する……。

などと、リズムに乗せて諳んじたくなるほどに。暖かい初春の日差しを浴びた緑の庭は、心が洗われるほど素朴でうつくしいのでした。

 

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『ボタニカル・ライフ』というエッセイがあります。都会のマンションで一人暮らししている著者が、ベランダで数多の植物を育てる「ベランダー」として綴った、哲学的ともいえる日々の記録です。

 

「植物のサイクルは言うまでもなくたいてい一年である。同じように芽が出て同じように花が咲くとも言えるが、むろん毎年少しずつ状況が変わる。(中略)

だが、その変化は太陽のある限り反復する。

人間がすべて死に絶えても反復するだろう。

したがって、ちゃちなベランダでのこの瑣末なエッセイもまた、繰り返し続ける植物の生命のほんの一瞬と戯れた記録に過ぎない。

いや、だからこそ何年後に読んでも不変なのだと言い張りたくなるのは、人間でしかない者のやくざな悔しさから来ている。

 

まあ難しいことはともかく、ベランダに出て水でもまこうじゃないか。」

~ いとうせいこう『ボタニカル・ライフ ―植物生活―』

 

生活の中の小さなワンシーンに、かすかな心の揺れ動きを見出だし、自身の根底にある大きなテーマを繊細かつ大胆に語る。かと思いきや、急にふっと肩の力を抜いて、気楽にユーモラスにその日の出来事を駄弁る。

今になって読み返すと、私の文字書きが彼の影響を受けていることがはっきり分かります。カッコイイんですよね、軽いタッチの中に重い懊悩を込める構成。拭えない堅苦しさを誤魔化すように、明るく振る舞ってこそのハードボイルド。ちょっとダサい感じが、かえって親近感を抱かせるんです。こんな文章を書けたらカッコイイよなあと。

 

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思えば、文章世界の私を形作ってきたのは、思春期入りたての中学時代に出会った、作家たちのエッセイでした。軽妙洒脱なエッセイは私の言語感覚に影響を与えましたし、時に語られるささやかな哲学が私の価値観を揺るがしてきたのです。

『ボタニカル・ライフ』以外にも、印象的なエッセイはたくさんありました。日記で触れたことがあるものもいくつか。それぞれの本から、魅力的なシーンを引用したいと思います。短くまとまっていて、分かり易いものを。

 

「僕らは塾帰りに、途中の国道沿いの雑貨屋で肉饅を買って食べる習慣があった。季節が変わり寒くなりはじめると湯気の昇る肉饅を食べることが凄く楽しみになるのだ。北海道の夜空は星が高く、きらきらと散りばめるように灯っていて吸い込まれそうだった。僕らは肉饅を口いっぱいにほおばりながら、その神秘的な輝きを見つめていた。大きな星空を見ていると、自分たちの存在の小ささに気を失いそうになった。」

~ 辻仁成『そこに僕はいた』

 

「幸い、人影はないようである。それを確かめると、ぼくは再び「ファイヤー!」とペダルを漕いでダッシュし、自動販売機の正面に立った。

エッチな本は五冊ずつ二列に、上から下へと並んでいる。表紙はいずれもエッチエッチエッチ、エッチの坩堝である。(中略)

「ぬおおおおッ!」

ぼくは推理力と計算力とスケベ力のすべてをこの一瞬に全開し、爆発的に頭を働かせた。これくらい懸命に頭を使えば、東大でも京大でも楽々入れちゃうのではないかという勢いである。頭の中に「九百円」とか「若妻」とか「団地」とか「濡れ濡れ」とか「裏切りません」とか「お勧め」とか、そういう文字が浮かんでは消える。」

~ 原田宗典『十七歳だった!』

 

「否定的な意見が親族内で飛びかう中、睡眠学習枕は我が家に届けられた。定価は三万八千円。枕にしては高額である。(中略)

傍らで見ていた父が、「その枕しゃべるんだろ、おもしれェなァ、今すぐしゃべらせてみろ」と言うので、試しに「うんこちんちん」という時代遅れの加藤茶のセリフを父の声で吹き込むことにした。

テープレコーダーに向かって父は、「うんこちんちん」と言い、枕のダイヤルをセットする。高まる期待と不安の中、枕は父の声で「うんこちんちん」とつぶやいた。

私と父は機関銃のように笑った。バージンボイスを「うんこちんちん」に奪われた枕は、少し震えているように見えた。」

~ さくらももこもものかんづめ

 

「僕たちが降ろされたところはガソリンスタンドの前で、周りは真っ暗だし、待合室らしきものはなかった。(中略)

「しょうがない。ここで待とう」

リーダー格の男がそういい、持参してきたラジカセのスイッチを入れた。ラジオでは、ロイ・ジェームス司会による、昨年の歌謡曲ベスト100という番組を流していた。僕たちは桜田淳子の『黄色いリボン』をヤケクソで合唱したりしながら、真冬のしかも真夜中の道端で、新年の夜明けを迎えたのだった。」

~ 東野圭吾『あの頃ぼくらはアホでした』

 

……なんか、ギャグエッセイばっかりじゃね? いえ、きっとそれでいいんです。

中学当時の私は、単純に「面白い」からエッセイを読んでいたわけでして。そうして積み重ねてきたギャグ寄りの読書経験に、自らの物憂さや大人への憧れをエッセンスとして垂らした結果、現在のような『ボタニカル・ライフ』を模したスタイルに落ち着いたわけです。たぶん。わかんないけど。

たまに真面目な話題で日記を書いている日は、文体が「ですます調」ではなく「である調」になります。こんなときの私は、過去に読んだエッセイを無意識のうちに参照しながら、自分にできる範囲でカッコイイ文章にまとめようと試行錯誤しているわけです。

 

もっと上手な日本語の使い手になれれば、いずれはこの日記も、誰かの読書経験の一部として記憶されるときが来るでしょうか。そして彼が、私の言い回しや構成を真似してくれるとしたら、こんなに誇らしいことはありません。

 

 

(おまけ)

エッセイだけでなく、小説も結構読んでましたね。印象に残っているのは、森見登美彦の『太陽の塔』や、上橋菜穂子の『精霊の守り人』シリーズなど。文体の特徴が私に引き継がれたかは分かりません。しかし、特に森見登美彦周辺の世界観などは、進路選択を含めて私の価値観形成に大いに寄与しました。

ちなみに、書籍以外の媒体で参考になった文体があるとすれば、それは

https://twitter.com/bot_pa_

です。