『そこに僕はいた』を読んだのは、中学生になる直前の春休みでした。
バンドマンである作者の、少年期の思い出を綴ったエッセーです。
北は函館から、南は博多まで、各地を転々とした記憶。学習塾での甘酸っぱい失恋や、やんちゃなワルと過ごした夜のこと。すれ違ったまま会えなくなってしまった友への思い。
きらめく宝石のような青春の記録でありながら、心の奥に抱えている冷静さ・孤独感が滲み出ている、そんな一冊でした。
当時の私にとって、中学や高校の話は「これから起こる」出来事。ですから、作者に寄り添って懐かしさを感じつつも、クールでセンチメンタルな青年像に憧れを抱きながら読んでいたのです。
『十七歳だった!』を書店で手に取ったのは中学生の半ば頃だったでしょうか。
こちらは別の作者が、高校時代のはちゃめちゃな3年間を振り返って書いたエッセーです。気合いばかりが空回りする男子高校生の、恥ずかしさ満点の出来事の数々が、ギャグ調の文体で元気よく綴られています。
思春期の煩悩・反抗期のエネルギーに満ちた高校生。夜中に家を抜け出してエロ本を買いに走ったり、カッコつけようとして不味いタバコを無理やり吸ってみたり、ふとした親子喧嘩から家出を企てたり……。
中学生の私にすれば、これらは紛れもなく「未来に起きるかもしれない」イベント。そりゃあもちろん、品行方正ないい子ばかりの学校に通っていて、その中でも際立って気弱である自分は、こんなに無茶苦茶な冒険はしないでしょう。しかし、そうと分かっていてもやはり、自分よりオトナである高校生の話は面白くて、可能性を感じさせてくれました。
おそらくそれと同時期に、私が友達と一緒になって入れ込んだ音楽がありました。「カゲロウプロジェクト」です。
それまで見たことがなかった、刺激的で鮮烈なMV。救いのないセカイ系の物語と、絶望的な逆境へ立ち向かう「メカクシ団」のクールさ。いえ、当時はここまで分析できていなかったかもしれません。いわゆる厨二病に私たちは陥っていたのでした。
特に私の目に魅力的に写ったのは、メカクシ団最年長のシンタローです。彼は確か17歳で、高校に行かず引きこもりニートしているという設定でした。本人は苦しそうに生きているけれど、年下の私から見ればそのライフスタイルもひとつの「粋」。彼の重い過去に同情しつつも、そのスラリとした姿と冷笑的なスタンスを憧れの眼差しで見ていました(……と後から記憶修正している可能性もあるけれど)。
ネット世界の「ヒミツ」っぽいノリにすっかり味を占めた私たち(=普段言うところの「高校同期」)は、揃いも揃ってオモテの陽気な人間関係を捨て去り、裏世界たるツイッターでお手本のような陰キャへと育っていきました。もちろん、移動の過程でいろいろ派手にやらかして黒歴史を作りつつ。
それまでの天真爛漫でガキっぽさ満開だった己の行動を恥じ、一転して内向的で重苦しい青年へと変わっていく私。これもひとつの成長の形、後悔することはありません。
本当に後悔はない?
晴れて大学に入学してからはや3年。今ではすっかり背も伸び切って、内面はともかく立場的には成人の仲間入り。齢を数えること、なんと21歳。
夜中にコンビニに行くとか、朝まで駄弁って酒飲んで寝落ちするとか、男子大学生にしかできないノリをたくさんやりました。今この瞬間もそうです。『そこに僕はいた』を読んでいた頃の私にとっては、あり得ないほどカッコよく見えることでしょう。
でも、今の私は自分のことをカッコいいと思えているでしょうか。
『そこに僕はいた』の彼のように、たくさんの友達と交わり、何度も切ない恋を味わい、唯一無二の感性や人としての魅力を磨くことができたでしょうか。
『十七歳だった!』の彼のように、思いっきりやんちゃしたりドキドキしたりして、後から目を細めて振り返るような瑞々しい思い出を作ることができたでしょうか。
シンタローより4つも年上になって、今さら彼と同じ自暴自棄の引きこもり生活に陥った今、これで憧れのとおりになったと胸を張っていいのでしょうか。彼が弱冠17歳にして完璧に会得していたクールでニヒルな笑顔を、夜中のシャワールームの鏡に映る自分の顔は果たして真似することができるでしょうか。
憧れの「俺」はどこにいますか?